大喜利三昧

もうちょっと大喜利を楽しむブログ。

テレビが面白くなくなったのは画質が上がったからだよね(少なくともそれが一因だとは思うよ)

私は違いますと言われるかもしれませんが、少なくとも私は悲惨だなあ、とかそういうのをテレビに求めています。安全な悲惨さです。サイコパスではありませんから、ただただスプラッターなものを地上波で流せとかそういうことをいっているのではなく、人間にはそういうものを楽しむ機能があるので、昔から連綿とそれで笑いを取る歴史があるわけです。

 

また、テレビに限らず、いつもの生活では見られないようなものであるからこそ人は見たいと思うわけで、いつもの生活で見られるようなものを見たいとはあまり思わないわけです。電気代もかかりますし。サーカスが来たらみんな見に行くのはサーカスがいつもそこにはないからです。いつもの公園にいつもないサーカスがあるからこそみなさんはこぞって見に行くわけです。

 

その安全な、面白い悲惨さなんですけど、それを楽しむ大きな要素として画質があると思うのです。確かにテレビは綺麗になって、いろんなものが見られるようになりました。たとえば女優さんの毛穴とかね。

 

でも特にバラエティの話をすれば、無茶な企画と言うか、そういうのでも今はハイビジョンになってしまうので、その裏の充実を見てとってしまうのです。あ、ここでは今無茶しているけれども、豪華な家があって、沢山のお金があって、というふうに思ってしまうと、私一般庶民の目からすれば面白くなくなってしまうわけです。動物愛護のVTRで涙を流していた人が次の番組ではおいし~い!なんてフォアグラを食べていたりするわけです。

 

昔のテレビで言うと、画質は荒かったので、結局一般庶民の撮れるものと放送されているもので、特に無茶系のバラエティだと変わらなかった訳です。そうすると、これを撮っている人も同じ状態で無茶してるんだな、と思って笑えたものが、今はそんなに面白くないわけで、要するに「自分でもできるけどやらない無茶をやってくれている」状態から、「どうでも良い無茶を勝手にやっている(ハイクラスの人が)」ように今は見えちゃってるわけです。

 

イッテQとかの視聴率が高いのも、火山の火口なんか行ってみたりして、あんなのはハイビジョン向けの無茶ですよね。無茶に見えるけどちゃんとそこハイビジョンで見せたいなってところがあって。無茶は無茶でみんな見たいんだけども、ただの無茶をハイビジョンで流されても終わったら「ハイお疲れ様したー」で焼肉食べに行くんでしょみたいな当方うがった見方をしていますので。

 

そういうことでテレビは味方ではなくなったのかなという見方を意識の中ではしています。ワイプなんてのも視聴者の視点を意識した方法かもしれなかったのですが、画質が上がってプロにしかできないようなものであると意識されてしまった時点で視聴者の味方にはなりえない、チェックされたり、正されたりする、鷹揚に許してもらえるようなものではなくなったのです。