大喜利三昧

もうちょっと大喜利を楽しむブログ。

個への最小限の2

「お題から2つの異なる要素を抜きだし、それを文章化して答えとする」というのが岩間メソッドであった。まあもはやこれに関する議論も終わってしまったかのようではあるが、一応気づいたことがあるので残しておく。

岩間メソッドを使った場合、答えの出来上がる工程式は

 

A×B=C

 

である。このとき、AもBも無数のものであるから、Cも無数のパターンを色として持つことになる。AとBはその回答を出す人間が勝手に決められるので、魔法の詠唱時間(回答が発せられるまでの時間)はそうかからない。留意しておこなければならないのは、AとBは「正しいもの」と「間違っているもの」でなければならないことだ(順不同)。かつ、AとBはそれだけで完結していなければならない。

 

基本的には大喜利で出来ることはAとBからCを生み出すこのイコールの部分のはたらきだけで、それを生み出す基本的な材料であるAとBを自ら生み出すことは出来ない。発展的には、新しい単語を自ら作って、それをAあるいはBとして用いることができるかもしれないが、それが2つの単語からなる造語だった場合(良く使われる手法)、結局それはイコールの働きになる。イコールの働きと言うのは、仕上げる働きである。岩間メソッドでいえば、「答えとして文章化する」の部分。

 

式にすれば、

 

(A×B=A’)×B=C’

 

ということになる。

 

このことから、大喜利で無数のパターンを生み出すためには(すなわち、「大喜利がうまい」「いろんな回答ができる」と言われるためには)、それ以前に、その基本的な材料となるAやBの知識を沢山持っておくことが大切であると言えるかもしれない。

 

つまり、本を読むべきで、映画を見るべきで、音楽を聞くべきで、人と話すべきだということだ。そのことによって、たくさんの「正しい世界観の材料」、また「誤っている世界観の材料」が脳に蓄積されていき、詠唱時間中にそれを組み合わせて、大喜利の回答は生み出される。おかしなものを生み出す才能がないのではなくて、それ以前に完璧に正しいもの、完璧に間違っているもののストックが足りないのだ。「正しい世界観の材料」、また「誤っている世界観の材料」も、「その人にとってはすべて正しい世界観」である。論理的に正しく正しいものと、論理的に正しいが間違っているものを組み合わせることで、論理的にはまったく間違っていないものの、これはなにやらおかしいぞ、という世界観を生み出すことができる。

 

大喜利で、スランプに陥ってしまった、ということがある。何も思いつかない、と思ってしまうこともある。それも、そのストックがなくなってしまったのだ。問題は、「何かを思いつく/思いつかない」ということではなくて、「生み出すための材料が枯渇した」ということにある。そこまでの人生、大喜利を始めるまでの生涯で培ったさまざまな趣味的な領域でのパターンが尽きてしまったのだ。その場合は生み出すことを少し休んで、材料を補てんしなければならない。

(画像お題を難しく感じる、ということもここに理由を求められるかもしれない。世界観の組み合わせである大喜利において、画像お題はある程度の世界観を主張してしまうので、それにあう世界観のパターンを持っていない場合、回答が出せないということになる)

 

ところで、なぜ基本がA×B=Cになるかというと、自らの名前のことを考えてみたらいいと思う。名字と名前があって1人の人間がいる。それでなくても、2つのものを組み合わせることによって、ある程度1つだけのものを作り出すことができるからである。

 

この組み合わせて作り出す能力について、日本人は得意な方だと思う。それ以前のまったく新しいものを作り出す能力は日本人にはあまり向いていないと言われる。責任を取らなければいけないからだ。組み合わせることに失敗しただけならば、その組み合わせが失敗だっただけで、ほかの組み合わせを試せば成功するかもしれないという猶予がまだある。新しいものを作り出したところでそれが認められなければ、今後その人から作り出されたものは失敗するという展望を抱くことができる。

 

つまり、大喜利は自信はないが知識はある人に向いている。そういう人がたいてい、大喜利がうまく、本格派とか、真面目とか言われることになるだろう。僕は、本流とか、主流と呼びたいけども。王道とか。王道をゆくのが一番つらいのだ。とはいえ、おかしい×ただしいでだいたいの答えは成立しているように思えるので、誰が脇道にそれているということもないようには思うけれども。