大喜利三昧

もうちょっと大喜利を楽しむブログ。

いちばん弱い者の味方、ルール~「制限のルール」から「拡張のルール」へ~

その人の持っているもの以外で人を2つに分けようとしたとき、一番簡単で、その人たちを納得させる方法は「勝敗」によるものだと思う。勝てば次の段階に進め、負ければその段階に留まることは、ほぼすべての人間が納得することができる。勝ちたいというのも負けたくないというのも立派なモチベーションである。

 

しかし、どうしても大喜利においてはその、人間にとって最も簡単な動機づけである勝敗が、なじまないケースが多くなると思う。正確に言えば、なじまないというより、そのひとつひとつの勝敗に納得がいかないケースだ。

 

勝敗の根拠が「笑い」という不確かなものだから、それを元にしたいかなる点数でそれを決しても、全員の賛同は得られないと思う。必ずしも全員の賛同が得られないとしても、それを目指す態度は常にとっていたい。

 

もちろん、「そのような勝敗は、大喜利というゲームをさらに楽しむための形式上のものだから、それほど重視すべきではない」という主張もあってしかるべきで、イベントなどでは、もちろん最終的にそのイベントが盛り上がればそれを主催した側としては良いわけであるから。

 

一方で、勝敗を基本とした集団に参加する個人の方に目を向ければ、どうしても勝った者はうれしいし、負けた者はくやしい。これも、ほぼすべての人間が納得できることだと思う。ただ、勝ったこととうれしいこと、負けたこととくやしいことの間には特に因果関係はない。勝ったことによって注目されることや評価が高まる事、またなにより、“そこで大喜利がもう一度できること”がうれしいのである。負けた者はふつう、そこからは観客に回らなければならない。基本的に大喜利は見るよりもやるほうが楽しいものである。もう一度やりたいと思うのは当然のことだし、勝ちたいと思うことも当然だろう。

 

しかも、“笑いの勝敗は誰の目から見てもいつも明らかだとはいえない”のだから、もし自分が負ける側に(大喜利をする機会がなくなってしまった側に)なってしまっても、それほど、自分の勝敗に関して納得感はない。完膚なきまでに叩き潰されるというのもあるにはあるが、そう多くはない。問題は勝敗がつくことではなく、その勝敗に個人のレベルで納得がいくかどうかだ。

 

そうなると、「すぐ、どこででも、誰でもできる」という大喜利の利点がとたんに弱点になってくるのであって、勝敗をエサにした一般人のフリーエントリーの大会(を模したもの)で、負けたプレイヤーが最後まで大会を見届けてくれるだろう、というのは希望的観測に過ぎない。最後までいてもらおう、次も参加してもらおうというのはルールを司る側にとって当然の考えである。

 

そこで今回の本題、「制限のルールから拡張のルールへ」ということになる。勝敗以外で“納得のいくように”人を2つに分けよう、あるいは条件によって“納得のいくように”分岐させようという試みである。分岐があればあるほど処理には時間がかかる(つまり、間を持たせることができ、そのブロックが大きなものになる)。

 

おもしろく、かつ納得のいくようにというのがみそで、「勝ち」にも「負け」にもその分岐に納得がいくことで、次のチャレンジを容易に促すことができる。よく分からないけど勝った、よく分からないけど負けたでは、「この勝負に挑む意味はない」ということになってしまうからだ。それぞれが作戦を立てられるような(それに意味があるかは別にして)、工夫の余地が必要である。

 

―制限のルール

 

大喜利は基本的に何をしても良いということになっている。しかし、誰がいつ何をしても良いということでは、これはいいとか、これは悪いとか、判断ができない(判断なんてしていないという人は、いつも全ての回答に対して100点だと思っているか考えてみてほしい。もちろん、100点と120点を分けるのも、判断である)。

 

もちろんいつ誰が何をしても良いじゃないか、楽しいじゃないか、みんな違ってみんないいというのもアリだが、それ、たぶんじきに飽きると思う。

勝つか負けるか分からない、つまり分岐がある、Aに行ったらいいな、Bに行ったらいいな、と思ってチャレンジしている状態が人間楽しいのであって、そのモチベーションがない状態で同じことをずっと続けられる人はそういない。

 

そこで、その100点と120点を分けるものとして、大喜利にはお題がある。

お題に対して沿っているか沿っていないか(具体的に何が沿っているか沿っていないかということはここでは問題にしない。ややこしいから)ということを一応判断基準として置いて、それによって「大喜利らしい面白さ」を競い、それによってそれを「大喜利」と言っていることが多いわけである。

 

その判断基準がなければ、ある程度の形として成立しないし、その決まった形があるからこそ数多くの人がそれを理解することで、同じように楽しむことができる。「ボールがリングを通ったら2点。ある程度遠くからだったら3点」という判断基準がなければ、我々はバスケットボールを楽しむことは、たぶんできない。

 

もちろん、この選手は今まで見たことがないほど足が速いとか、近所にこんな身体が大きい人はいないぞとか、そういう楽しみ方はあるかもしれないが、そこにバスケットボールの固有としての楽しみはないだろうし、そもそもそれがなければそれがバスケットボールなのかどうか怪しくなってしまう。

 

この、「それをそれとしてちゃんと楽しむための判断基準」を、我々はふつう、ルールと呼んでいる。ルールがあるからこそ、まったく異なった文化や性別、成長、年齢、その他の色々な“ちがうもの”の存在を忘れて、“おなじもの”を楽しむことができる。また、大喜利に限れば、“おなじもの”であるルールをいかにうまく利用するかという別の楽しみも生まれ、そこに腕が出てくる。

 

これまで大喜利のルールは、「何をしてもよい」という自由状態に制限をかけるものが多かった。「フリップを使って回答する」という「フリップ大喜利」は立派な制限である。また、文字数の制限。歌って答える。などなど、大喜利に対して制限をかける「制限のルール」はこれまでにたくさん見られたと思う。「大喜利内のルール」といっても良いだろう。

 

まず、「面白さを表現する」ということに対して、大喜利は「お題」という制限をかけたのだから(あるいは、「お題」という制限を利用する道を選んだのだから)、大喜利は「制限のゲーム」といっても良いと思う。判断がしづらい“笑い”を得点とするゲームに対して、それをより楽しむための共通の判断基準を、“笑い”以外の制限に求めてきたわけである。つまり、納得感や説得力は笑いよりも、よりルールに対しての距離の方が近い。

 

言ってみれば当たり前のことではある。いくらスーパープレーが10個あったって100個あったって、相手に1点取られてこちらが0点ならば負けを認めざるを得ない。

 

しかし問題は、「制限のルール」だけでは人を2つに分けられないということにある。結局、文字数制限にしても、道具制限にしても、何にしても、最終的にはその分岐機能を、説得力を、「勝敗」先生にお願いしなければいけないのである。そしてその勝敗は大喜利には結局なじまない。

 

―拡張のルール

 

そこで出てくるのがもう一つのルールのトレンド、「拡張のルール」である。大喜利の答えを何かに使う、また、一時的に勝敗は決するけれども、大喜利の勝敗を勝敗だけで留めることなく、それをまた何かに使うようなルールが作られていくと思う。つまり、大喜利の結果をいったんブラックボックスに入れて、そこから取り出した結果を楽しむ仕組みが生まれていくだろう。「お題・答え・相手」の勝敗大喜利3点セットから、たとえば大喜利の答えを切り離し、一つの素材として用いる考え方である。

 

「制限のルール」から「拡張のルール」へと流れて行くもう一つの理由がある。それは、それぞれが固有の何かになろうとする力が働くことだ。ありていにいえば、「制限のルール」は誰にでも思いつく。文字数を制限しましょうとか、英語で答えましょうとか、そういうことは、すでにあるものを使っているから、それの組み合わせに過ぎない。ある程度限界があるのだ。

 

「拡張のルール」は、それとはまったく異なって、また新たに大喜利以外の物を一つ作り上げるくらいのスケールが必要になってくる。それはまったく自由なので、もはや大喜利のセンスというよりは、ゲーム作りのセンスであって、「こういう遊びを考えた」くらいのことになってくるだろう。大喜利に関するイベントも、「制限のルール」かつ「勝敗」のみではなく、それ以外のチャレンジが多くなってくると思う。

 

謎解きがブームになって久しいが、謎解きも、分岐機能を「勝敗」に頼らず、また説得力を失わない仕組みである。「謎が解けた」か「謎が解けなかった」かは「勝敗」ではないが、確かにそこには分岐機能も、分岐による優越感も、その基礎になる説得力も備わっている。努力すれば優越感が得られる、納得感のある分岐を好むという人間の性質を利用してはいるものの、“負けた”、つまり「謎が解けなかった」ということも、その納得感によって(良い分岐への渇望をあおって)次のチャレンジを促す仕組みだ。

 

一つ言っておけば、「拡張のルール」にも1つ問題点があって、それは、スターを生み出せなくなること。つまり、参加者一人一人の個性が全人格的に認められることがなくなることだ。「拡張のルール」は全体のためのルールである。実力がある人がいつも勝つ、ということはなくなる。スターになりたい人には残念なことだが、これの方が逆に一般人が大喜利をするということに向いているかもしれない。まあ勝敗というモチベーションは最もシンプルであるがゆえにもっとも固いので、それが一般のものであっても大会形式の大喜利がなくなる、という未来は想像しづらいが。

 

大喜利も、説得力のあるさまざまな“おなじもの”の出現を望みたいと思う。その上で、「制限のルール」と「拡張のルール」が一つのゲームの中に併存するような状態がより理想的で良いと思う。勝敗も別に悪いものではないのだから、その分岐の機能を何かほかのものにもたせよう。