大喜利三昧

もうちょっと大喜利を楽しむブログ。

みんな優しいから困ってる  

遂にこのテーマを書いてしまう(僕の脳の中だけの“ついに”だけど)。

前々からというか、大喜利を始めた当初から思っているのだが、残念ながら僕は素人なので、大喜利には自信がない。自信がないというか、いくら面白いと言われようと(たま~にある)、少し票が入ろうと(たま~にある)、大喜利において自分に与えられた評価に、根拠のなさを感じてしまう。

 

お前が自分に自信がないだけだろと言われれば、そうです・・・とうなづくしかないのだが、まあつまりずっと疑っているわけで、今出したこれ評価されてるけど、本当に面白いのかな?と自分に対してずっと思っている。もちろん、評価されたらうれしいし、評価されたいとも思っている。しかし、しかしだ。自分の自分に対する追及の念は根底にずっとある。

 

一方で、ほかの人の答えはなるべくフラットに見れているような気がする。これも気がするだけで、本当はそうじゃないのかもしれない。本当を考えることがすでにナンセンスな気もするが、そう思ってしまうのだからしょうがない。

 

しかし、例えば自分にとってものすごく嫌いな人とものすごく好きな人が1対1で大喜利をするとして、どっちのほうに情が寄るかな?という問題を出されたら、ほとんどの人がまあ好きな方に肩入れしちゃうよな、と思うだろう。好きな人は失敗してる姿も面白いからね。そこをルールでどうにかできませんかね、というのをずっと思っている。好き嫌いを越えて戦えるようなルールができれば(誰がどう見ても一目瞭然な形で)、それは文化になっていくと思う。一過性のブームじゃなくてね。

 

まあ人間が判断する以上無理な話だとは思うが、勝敗を決めている大喜利はすべて、「表現点しかないフィギュアスケートのフリー」の程度にとどまっていると言えるだろう。疑わしいと思う(もしくは、思いたい)人から見れば、いくらでも「勝敗は操作されている」という理屈は付けられるだろう。

 

前に言ったように、大喜利には評価が必要である。大喜利にとって評価はエネルギー(原資)であって、そのエネルギーをとりあえず掛け金として集めておいて、それを面白かった人に配るというシステムが成り立っている。普通は。

 

大喜利のコミュニティが成り立たなくなるのは、「誰も評価したくないけど、自分は評価されたい」という人がたくさん現れた場合で、ボケてのように☆稼ぎとか、グループ自演行為とかが起こったりする。つまり大喜利に参加する以上、それは前提として、「誰かを評価する態度がなければいけない」(これはあくまで評価する権利のレベルが平等な場合であって、ラジオの投稿コーナーや1対多の大喜利は除く)。

 

これは歌や俳句、川柳など、その他の表現ツールとは全く異なっていて、その結果大喜利は一人ではできない。と思いがちだが、いや、「大喜利は一人ではできない」というのは、まったくの嘘だ。大喜利は、一人でもできる。壁に向かって、自分でお題を作り、自分で答えていればいい。これ、大半の人が気持ち悪いと思うかもしれない。しかし俳句だって川柳だって歌だって、一人でこそこそ何千何万句詠んだりしている人がいるはずなのだ。

 

つまり大喜利はただ「表現すること」なのではなくて、「表現すること」と「それを評価されること」がその根底にあるのだ。「私は表現すべきだ」、さらに「私は評価されるべきだ」という思いが、「大喜利は一人ではできない」という期待の中にはある。そして評価されたい人間が、1評価してあげるから10評価してくれ、というのが大喜利であって、つまるところそれは、言葉のギャンブルである。

 

大喜利が言葉のギャンブルであるからこそ、全ての回答はそこに残留することを許されず、それが、「刹那的な快楽」になっている。大喜利中毒?大喜利好き?いえいえ、これはまさしく「知的ギャンブル中毒」といっていいだろう。すべては1評価するだけで10評価されたあの時のために、また一瞬の創作活動に脳を使ってゆく。性急さ、不安定さ、中毒性、どこをとってもギャンブルじゃないか?テクニックなのかオカルトなのか分からない理論もあることだし。

 

少し戻れば、大喜利にとって評価はエネルギー(原資)であった。そして今、大喜利は言葉のギャンブルである。配当を増やすためにはどうしたら良いと思いますか。「☆をあげるから☆をください」なんて、言ってみますか?