大喜利三昧

もうちょっと大喜利を楽しむブログ。

最低限それが大喜利であるために我々は初めて会った他人に何を求めることができるか

企画大喜利という分野がある。

ただ大喜利をするのではなくて、ある程度の定められた目標に向かってその場のメンバーが同じ行動をとるという物が多い。つまりただ大喜利をするということは、最初の段階ではどのような方向に向かっても良いわけである。笑いを取っても良いし、笑いを取らなくても良い。

 

もともと大喜利大喜利であるための最低前提条件が「お題に対して応答しているとみなされること」であるので、応答したとみなされるすべての行動を大喜利の回答とみなさなければならない。これはもちろん最低前提条件なのであって、この条件をもって全ての逸脱した(と、思われる)行動が全て認められるわけではない。

 

たとえば、お題が発表された瞬間に脱ぎだしたからといってそれが大喜利の回答と認められるかどうかは定かではない。もちろん、大喜利をやるのであるから、面白い発想は言葉に帰着させるべきであるし、言葉に帰着できないようなものは絵で表すべきであるし、リズムを伝えたければ節をつけて歌うべきである。重要なのは「伝えようとする意志」なのである。

 

大喜利という物質の構成にとってコミュニティの存在は不可分なのだから(その大事なものの一つに、評価の供給源としての働きがある)、もちろんそのコミュニティに一時的に属しているものに対しては、できるだけ伝えようとしなければならない。一人で完結する、たとえば自分だけが面白いと思うものを大喜利の答えとして提出する場合であっても(不思議なことにそういうことがある、伝えることにつかれた反動だろうか)、それを言葉にする、あるいは絵にする、歌にする、といった時、そこに「伝えようとする意志」が生まれ、それは大喜利の回答とみなされ、コミュニティの言語として正しく意味を持つ(そして伝えようとする意志がある限り、伝える方法を練っていくことも重要)。

 

以前に大喜利の回答とみなされる条件を「お題に対して応答しているとみなされること」と書いたことがある。ここに第二の条件を書くが、それは前述の「それに加えて、そこに伝えようとする意志があること」である。この2点をもって大喜利の回答の条件としたい。

 

ついでなのでお題無視に対しての意見も書いておくが、この大喜利の条件1点目に書いた「お題に対して応答しているとみなされること」にお題無視の回答が反しているかといえば、反していない。なぜなら、お題がなければ、それを無視はできないからである。存在していないものは無視することができない、というのは当たり前のことであって、無視することができる、ということが逆説的にお題の必要性を証明している。

 

一つだけ例外があって、それはお題無視の回答が100%を占めてしまった場合である。お題無視の回答しか出ない、ということは、それはお題の必要性がない、ということである。それは大喜利とは全く違う別のゲームとして独立させた方が良い結果になると思う。個人レベル、ゲームレベル(個人対個人の1セットマッチ的なもの)でも同じで、その時間、その区切りがすべてお題無視の回答で占められてしまうのであれば、それは独立させた方が良いと思う(回答しか寄る辺のない場合に限る)。

 

さて、大喜利にとって最も大きなコミュニティとは大喜利である。

 

冗談だと思われるかもしれないがこれは本気で、タイトルにもした通り、「最低限大喜利であるために我々は初めて会った他人に何を求めることができるか」ということがテーマである。分かりやすく言えば、「大喜利をします」と一般レベルで言った時に、初めて会った他人に、「大喜利」という言葉だけで何を要求し、何を拘束できるのかということである。

 

上述の二点、つまり「応答としての認知」と「伝えようとする意志」、これは要求することができると思う。むしろこれ以外のことは要求できず、なので、難しくなる。何が難しいかというと、失敗の行き先である。失敗が規定されていないので、失敗が起こってしまった場合の対処が難しいのだ(これを、「失敗は存在しない」としてしまうと、おかしくなる。今は良くても、いずれおかしくなる)。

 

スポーツを例に挙げてみる。草スポーツなどでは、失敗が規定されている。失敗が規定されているということは、失敗が失敗だと目に見えて分かる、つまり「これが失敗である」という状態が共有されているということだ。草野球でボールを後ろにそらせば失敗であろうし、サッカーで空振りすれば失敗であろうし、バスケットでシュートがあらぬ方向へ行ってしまえばそれは失敗である。失敗は共有されている。

 

失敗が共有されていれば、“ある程度は”失敗を指摘することが許される。もちろん失敗した側も「失敗した」という負い目があるので、これまた“ある程度は”それを受け入れることができる。失敗による笑いも生まれる。「それは良いなあ」の話も合うし、「それはダメだ」の話も合うわけである。

 

大喜利ではどうか。失敗は共有されているか。一つの例として笑いが取れなかったということを失敗とすれば、それは共有されることは一生ないだろう。作者、つまり回答者がこれは失敗ではないとすれば、失敗ではないからだ。共有される基準がそこには存在しない。誰も回答の成否(巧拙)を決めることは出来ないのだ。

 

基準が外に存在しない以上、我々は基準を自らのうちに求めるほかない。つまり、自分の回答が失敗であったとみなされても(かつ自分ではその回答が失敗であったと認められなくても)、それを失敗であったと認めることによって、コミュニティに失敗を共有する態度を示すことがそれぞれに重要なことである。これはすべてその場で行うべきことで、あとで「あれは失敗だった」と振り返る事ではない。以上全てが自らへの戒め。