大喜利三昧

もうちょっと大喜利を楽しむブログ。

まずは人を好きになる

何かを面白いと感じるためには、まず、その人や物に対して1%の好意がなければならないと思う。100%まじりっけなく嫌いなものでは、きっと笑えない。無関心でもいい。笑えるということは憎めなかったということだ。あるものを憎むことをあきらめた時に、きっと笑えるのだと思う。ということを最初に書いておく。

 

大喜利には、現時点では決して統一された形があるわけではない(ある程度、こういうものが大喜利だよね、という共通の了解は得られているけれども)から、誰もが自由に解釈して、ぐにゃぐにゃとその形を、定義さえ、変えることができる。お題に対して回答がある、あるいはAに対してBがあるということまで「大喜利」にしてしまおうとすれば、「大喜利」というこの途方もない大ぐらいの概念は、なんでも食べつくしてしまうことだろう。

 

そして、現代の大喜利は、もともとはおまけにすぎないものであった。決してメインを張れるような大木ではなかった。そんな、もともとそれほど大木ではない「大喜利」という木から、しかし内部にあった伸縮自在のエネルギー(あるいは、様々なものを吸収してしまうサーカスのネット的な役割)によってあり得ない数の枝が分かれ、それぞれがまた、最初にそれが分かれた元の木ほどの大きさにまでなることができたし、持続的にその営みは続いてきた。

 

確かにそれは、一方では様々な視点からの種々多彩な大喜利を生み出す理由になるだろう。しかしもう一方で、その出発点、元の幹が大木でないことから生じる問題がある。あまりに大喜利という世界が広く統一されていないがために、過去は単なる過去であって、過去の積み重ねにはなりづらい。客観的にその歴史が実感しにくいという点だ。点が線にならないのだ。

 

それぞれの世界では確かに歴史があることだろう。それは、その小さな世界が区分けによって小さな統一ができているからにすぎない。一つの大きな「大喜利」という世界での歴史は描きづらいし、歴史にまつわる永続的・全体的な評価も他のことに比べて期待しにくい。

 

人格の話。上述の話でいえば、大喜利を区分けしたうちの小さな世界である、ネット大喜利。ここでは、さも「ネット」という大きな一つの人格があるかのように大喜利の回答が判断されていると個人的には思っている。

 

その大きな一つの人格が見せる様々な答えを、ディスプレイを通して1人の人間が判断していく光景が、日本中のいたるところで同時に行われている。この場合のディスプレイは、演劇における第四の壁の働きをしている。その回答をした人の人格や経歴、またはその人がどのような人となりをしているか、といったプライベートな部分にまで入り込んで、その回答の判断をすることは、野暮なことだと、たくさんの人の了解が得られている。

 

もちろんこれは、最小の情報として文字だけが与えられた場合で、そこに加えて声が情報として加わったり、インターネット上でも絵を描けるシステムはいくらでもあるから、絵も情報として加わるだろう。そうして私たちは、あえていうならばtwitter以後の私たちは、大喜利に関わる様々な人の人となりを知ってきた。

 

もし、その小さな世界が面白くないと感じたならば、それは知りすぎてしまったからかもしれない。「ネット」という大人格ではなく、その奥にひそむそれぞれの人格を。大喜利の中にある、大喜利大喜利以外を。個々の人間から離れ、ネットという人格を愛し、また個々の人間を見ているのが今なのかもしれない。ここで笑うためには、個々の人間を好きである、または好きになる必要があるだろう。

 

一方では、現在隆盛を誇る、実際の大喜利がある。大喜利を見るとき、もちろん我々はその回答だけを見るわけにはいかない。それは不可能なことだ。どうしてもまず、声が入ってくる。そこから人となり、表情。服装。言ってしまえば「今日これまでの感じ」。

 

そういったものの上で、1つの回答がある。強制的に人格は知らされてしまう。またそこで笑うためには個々の人間を好きにならなければいけない。あるいは、好きになっていく段階を踏まなければならない。一番好かれた人間が勝つのではないかと思う。好かれるというのは大喜利にとって最高の才能ではないか。誰が勝つ物語を一番読みたいのかということだ。「回答→笑う」なのではなく、「回答→好き→笑う」なのだ。

 

大喜利の刹那性や即興性もここにかかってきていて、物語や歌のように推敲や編集を経ておらず、また決まった形がない(「5・7・5」や「季語」などの)ということも、回答に人格が出やすい理由かと思う。人となりの出やすい表現形態なのだ。

 

まとめれば、大喜利で笑うためには、まずそれぞれの人格を好きになるプロセスが必要なのだと思う。ネット大喜利は、これまで「ネット」という人格が個々の人格を代替していたため、そのプロセスは必要がなかっただけだ。そしてパソコンで大喜利をするのだから、「ネット」という人格への親和性はあらかじめ高く、人格認知の問題は起こらなかった。

 

何も知らないという状態が、もっとも沢山のものを素直に受け取って笑える状態だと思う。初めて会った人に対して分け隔てなく好意を持てる自信のある向きはいいが、そうでなければ、事前に何やら情報を入れるのは適策ではないのかもしれない。そうであるがために、大喜利は信頼関係に依るところが大きく、また、外部から見れば(好きではない人から見れば)内輪であると見られがちになるのは、構造的に仕方がない。