大喜利三昧

もうちょっと大喜利を楽しむブログ。

光を当てる

 

【問題】1+1=?

 

と書いてあれば、まあ、ある程度と言うか、そこそこの教育を受けた人、特に日本人ならば、すぐに計算してしまうだろうと思います。これには、いざ計算だ、といって計算しようとして計算しているのではなく、まったく無意識的に、問題が目に入った瞬間にそれを解いてしまうような脳の働きがあるような気がするのです。

 

メッセージは短く、というのがいつまでも不変の真理として語られますが、それも、人間が、それを考えようと思わなくても考えてしまうようなメッセージを送った方が宣伝他の目的において都合が良いということだと思います。最近CDショップでセーラー服の女の子が「この子を探しています」という文言と一緒になっているポスターを目にしました。どうやら映画のようですが、言いたい事はまあそういうことです。

 

ところで、大喜利の話なのですが、お題が出る際に誰がそのお題を考えているのか?ということが今回の関心です。お題を考えると言ってもお題を作るということではなく、お題に対して回答を考えているのは誰かと言うことです。一義的には、舞台上の回答者となるかと思います。もちろん、この舞台上の回答者と言うのは、実際の大喜利の舞台上ということではなくて、そこで回答権を与えられている人それぞれを指します。ステージに上がっている人ということです。

 

しかし、二義的には、そのお題を見た瞬間に、ほとんどの人が回答を考えてしまうと思います。この「考えてしまう」というのが今回のあれでミソなのです。上述したように、そこそこの教育を受けたほとんどの日本人ならば、ほぼすべての人が自分なりにほとんどの大喜利のお題の題意を酌むことができると言ってよいと思います。日本語ができないなら話は別ですが。

 

つまり、お題が出た瞬間にそのお題が目に入ったその場の全員が回答を考えているわけで、舞台上の人のみが回答を考えているわけではありません。しかも、これがクイズなどとは違う点なのですが、大喜利にはご存じのとおり、誰もが納得できる答えはありません。なので、その回答が面白いか面白くないかは、舞台上の回答者の回答と、そのほかの舞台外の人の脳内の回答がどのようにかかわり合うかに依っています。

 

しかも、まあこれは別の機会にまた改めて書くかもしれないですが、人によって辞書が違います。脳内の辞書です。「月が綺麗ですね」を愛の告白としてとらえる人もいれば、そう言われて、何だこの人、とっても月が好きなんだなあ、と思う人もいるかもしれません。一方でバラの花束を渡しながら「アイラブユー」が最高だと思っている人もいるかも知れません。

 

つまり、同じ感情や色の温度を表現するにしても、それを伝える時に使う言葉には、その人の、育ってきた考え方が色濃く反映されているのです。一番自分で使っていてピンとくる言葉は「濃度」です。各人の事柄に対する濃度が、言葉によって伝達されることが大喜利っぽいです。

 

実際は観客の中でも回答なんて考えていないよという人がいると思いますが、そういう人でも多分お題を見た瞬間に、そのお題の濃度に合った単語が頭の中を駆け巡るはずなのです。単語と言う形ではなくても、ある程度の準備が見る人の方でも行われる。その次の段階として、回答者が出した答えがあり、それがその頭を駆け巡った濃度と同じときに笑う人もいるだろうし、濃度を越えた時に笑う人もいるかと思います。

 

ただ、その頭の中を駆け巡る「濃度の言葉群」ですが、これは完璧ではありません。人間なのですから、必ず何かを落としてきてしまいます。そこで回答者がその落として来たであろう同じ濃度の言葉を使ってあげると、ああそれもそういえばそうだなと、ありていにいってしまえばアハ体験のような形で、とてもよい回答だと判定されるような、そういう気がします。逆に、その濃度のど真ん中の表現をしてしまうと、それは分かってるよ、となってしまうかもしれません。まあ、「あえて」やった、という方向もなきにしもあらずですが。

 

英語に、Enlightenという言葉があります。啓発とか、教化とか、そういう意味の単語なのですが、これを僕は光を当てる感じだと認識しています。まだ人が認識していない暗闇に、光を当ててあげる。お題を見た瞬間にほとんどの人はそれに対して考えてしまいますから、その人が気づいていない暗闇に気づかせるような言葉の使い方がなされていると、少し上の段階に行けるのかもしれません。