大喜利三昧

もうちょっと大喜利を楽しむブログ。

アマチュア大喜利へのいざない、あるいは個人的な思い2014  

そういえば書いていなかったことがありました。

 

最近はただ大喜利をやるということよりも「大喜利というゲーム」について考えることの方が多く、それはそれで、と自分では思っています。大喜利は言葉を使ったゲームなので、それを実際にやることのみならず、それについて考えることもまた楽しみの一つです。

 

また、必ずしもそれを考えることや、それについて議論することがただ一つの答えを生まないとしても、そういった時間自体が楽しいものなので、それはそれで良いのです。大喜利について考える・考えないということは、特にそれ自体で良い悪いと判断できるものではありません。

 

ただ、考えることに向いている人と向いていない人は、います。考えなければ仕方のない人と、特に考える必要性を感じない人がいます。僕は前者なのでわりかし考えていますが、重要なのは、そういった思想や経験・普段の言動とは切り離されたところに実際の大喜利が存在していることを忘れないということです。実践が1で、論が2です。これは揺るぎない事実です。

 

しかし、そういった僕の頭の中では、最近ずっと大喜利についていろいろな議論やそうでない言葉が乱れ飛んでいたのですが、考えてみれば、まとまった量の文章で、なぜ大喜利は面白いのか、といったことがまとめられていないのはおかしいな、と思いました。「大喜利をすることは楽しい」ということは大喜利をやっている人以外にとっては決して自明なものではないと思うのです。

 

まあおかしいな、ということよりも、自分なりになぜ大喜利なのか、ということをまとめていても良いのではないかと思いました。自分の言葉で残しておこうと思いました。少しかっこいい言い方をすれば、「大喜利への誘い」といったたぐいの文章があっても良いのではないかと思ったのです。前置きが長くなりましたが、ここからがいざないです。

 

--------------------------------------------------------

 

みなさんは、大喜利というゲームがあるのをご存知でしょうか。古くは『笑点』の1コーナーとして座布団を取り合う形で知られていましたが、最近は『フットンダ』や『IPPONグランプリ』といった大喜利のみで構成されたテレビ番組でご存知の方も多いかと思います。

 

そういったプロの芸人さんが行う大喜利とは別に、一般人の趣味としての大喜利、アマチュア大喜利があります。僕はアマチュアの大喜利が好きです。かれこれ4年近くやっています。3年半近くは休んでいたので、ぎゅっと縮めたら半年やっています。なので、以下のことは基本的にアマチュアの大喜利について話します。

 

大喜利は、お題があって、それに対して面白いことを言うゲームだ。ということは、誰もが納得できることだと思います。しかし、ひとたびこの「お題」とは?「面白い答え」とは?と一つ一つ分解してゆけば、私達はたちまち分からなくなってしまいます。

 

一寸先は闇ではありませんが、大喜利をやればやるほど、お題に答えれば答えるほど、大喜利は分からなくなっていきます。僕は大喜利を4年やり、それなりにたくさんのお題に答え、それなりにたくさんのお題も作りました。

 

しかし、大喜利についてなにか1mmでも分かった実感は、正直なところ全くありません。何をか掴んだと思えば、その次の瞬間にそれは夢だったと思う、僕にとって大喜利はその繰り返しです。いつでも大喜利に答える時は汗をかきますし、緊張しています。それがどんな大喜利であってもです。

 

そうなると、それじゃあなぜ、ほかの何でもなく大喜利なのか?ということを、考えなければなりません。

 

「面白い」ということは明確に数字にすることは出来ません。「お題」についても、何の決まりもありません。基本的に大喜利に関するルールは、お題があって、答えがあるということだけです。質疑応答大喜利です。答えは全て回答例であって、正しい答えではありません。正しい答えは何処にもありません。

 

しかし答えは出さねばなりません。大喜利で問われた以上は応えねばならないのです。しかし正しい答えはありません。そうすると自然に、私たちが判断材料として頼ることができる味方は、自分自身しかいないことに気づきます。

 

つまり大喜利において正しい答えとはいつでも「自分自身が正しいと思う答え」であり、それを探すことが大喜利であるということができるかと思います。時間制限がある中で、いつでも最良の選択をしていくゲームが大喜利です。最良ということが正解と言う意味で正しいということとイコールではないことは、分かってもらえると思います。

 

なので、以前どこかで見た「大喜利の「かいとう」は「回答」と「解答」どちらか」という疑問の答えは、「どちらでもある」です。自分自身に対しては「解答」であり、その他の人にとっては「回答」であるということができるかと思います。

 

今、なんにせよ、はっきりと何かを「良い」ということと「悪い」ということは結構難しくなってきていると思います。良いと言われているモノを良いといい、悪いと言われているモノをとりあえず叩いておけば、たいていの人の仲間にはなれるでしょう。

 

ただ本当に何かを、自分自身で、その良い悪いを考えているかと問われれば、僕は自信を持って首を縦に振ることは出来ません。僕が格別不出来という可能性は捨てきれませんが、自分が全く何にも影響されていないと言える人は少ないのではないかと思います。

 

なぜ大喜利なのか。あるいは大喜利をやって良かったことといえば、1つはこれになるかと思います。自分の価値観を自分に問えるのです。自分はこんな言葉を使うのか。こんな言葉を知っていたのか。あるいは、こんな言葉しか知らないのか。こんな風にしか伝えられないのか。ということが、分かってきます。

 

なので、楽しいだけではないかもしれません。自分が頭の中で面白いと思っているイメージは、案外間違っているし、全然伝えられないものです。

 

しかし、大喜利ほどにコストの要らない、本当に自分自身が良いと思うものを作り出せる趣味はあまりないのではないかと思います。まあ本当に?本当に?と考えていることが良いことなのだと自己満足に陥る可能性がないとは言い切れませんが、それにしても、意外なほどに人間は考えずに生きていけるものです。

 

楽しいだけではないと書きました。大喜利は、道具も何もいりませんし、必要なのは自分の脳一つです。となると問われてくるのは、自分自身ということになります。大喜利は言葉を使って伝えますから、自分の人生が問われます。価値観が問われます。お題が問うているのは、それまでの自分です。

 

不勉強な自分と対峙しますし、肝心なところで逃げてしまう自分、ことさらに明るくふるまう自分、言い出せばきりがありませんが、なんにせよ向き合わねばならないときがあります。それはチャンスでもあるとは思うのですが、僕自身もそういったことをなるべく避けてきた人生であったので、かつて大喜利をやめてしまえと思ったことは1度や2度ではありません。

 

こういったことは、実は大喜利を始めて最初のころにはあまり認識されません。なぜかといえば、まだその人の頭の中に「社会で既に面白いと言われているもののテンプレート」が残っているからです。この時期は、大喜利で傷つくこともあまりありません。悪いのはそのどっかから持って来た「誰かの面白い」なのですから。

 

それを使い切ったところで、そこから自分自身にとっての大喜利が始まるのではないかと、僕はそう思っているのです。もちろん、最初からそれが始まっている人もいます。時期はバラバラです。

 

上に、「回答」と「解答」の話を書きました。自分自身が正しいと思っているのが「解答」で、第三者的に見ればそれは「回答」であると書きました。

 

その、「誰かの面白い」を使い切ったあとに普通の一般人が出す、自分にとっての正しい答え「解答」を、第三者がそれを正しい答えだ、として認め受け取ってくれる確率は、限りなく低いです。もちろん見ている人が何人もいれば、その分確率は低くなっていきます。

 

しかし、その低い低い確率をクリアするような奇跡の瞬間が、大喜利にはままあるのです。そんな奇跡をどこかで見たという人が大喜利を始め、自分でもそんな奇跡の中心に立ってみたいと思う人が大喜利をやり続けていると、そんな風に思っています。

 

大喜利であれば、そこがネットであっても、実際の大喜利であっても、どこでも、誰もが、自分にとって最良の選択をしようとしている。ということは疑いようもなく、その決して報われる保証のない努力は大喜利の華であると思います。愛すべき部分に他なりません。

 

しかし残念ながら、この努力は一般的には全くの無駄です。1%の猶予もなく無駄です。第一私たちは一般人なのですから、笑いに本気になって自分と向き合った所で、何の得もしません。お金も得ません。笑いが得られれば多少報われるかもしれませんが、報われない人も少なくはないことと思います。

 

また、この文章は「大喜利っていいもんですよ、みなさんやりましょう」という趣旨の文章ではありますが、一応見逃せないので付け加えておけば、単に「大喜利は楽しい」とだけいうような主張は幅を利かせ過ぎているように思います。

 

実際は「本気でやろうとすれば色々なマイナスや精神的ダメージは計り知れないが、それを越えて大喜利には狂おしいほどにすばらしい時間がある」くらいが適当だと思います。そうでないと、少しのマイナスで「話が違う」ということになりかねません。

 

つまり、ほかの多くの趣味と何ら変わりありません。ルールを覚えないといけない趣味もありますし、練習をしないといけない趣味もあります。だから、やらなくてもいい。本当に、大喜利はやらなくてもいいのです。

 

しかし、なんでこんなこと本気でやってるんだろうと思いながらも、やるからには本気だと、奇跡を起こしてやるのだと、それぞれが色んな「おもしろい奇跡を起こす」人に憧れた、そういう人たちがたくさんいるような気がして、大喜利から離れられずにいるのです。

 

この文章の最後に1つだけ言っておきたい事があります。それは、上記全てのことを忘れても、また、上記全てのことを“まったく”認識していなくても、大喜利は「なんとなく楽しい」ということです。これは大喜利のすばらしい、すばらしい利点です。お題に対して答えているだけでなんとなく楽しい。どんな言葉を費やしても、その尊さにはかないません。こんなに道具もいらずシンプルな、かつ奥深い遊びはあまりないと思います。ぜひ、楽しみましょう。