大喜利三昧

もうちょっと大喜利を楽しむブログ。

「個別の全体」の呪縛から自由になれ

そもそもなぜ「生大喜利」が今生大喜利と呼ばれているのか考えよう。

それは一つの概念である。類似の概念に「ネット大喜利」「ニコ生大喜利」「ツイッター大喜利」「掲示板大喜利」などがある。しかしこの「生大喜利」という概念と、「ネット大喜利」「ニコ生大喜利」「ツイッター大喜利」「掲示板大喜利」という類似の概念との間には、徹底的な差異が一つある。

 

類似の概念の共通点を考えてみよう。「ネット大喜利」「ニコ生大喜利」「ツイッター大喜利」「掲示板大喜利」。つまり「ネット+大喜利」、「ニコ生+大喜利」、「ツイッター大喜利」、「掲示板+大喜利」。大喜利と足しあわされているのは何か?そう、“道具”だ。

 

ネットを使って大喜利をすることをネット大喜利と呼ぶ。ニコ生を使って大喜利をすることをニコ生大喜利と呼ぶ。フリップを使って大喜利をするからフリップ大喜利と呼ぶ。これはごく自然なことだ。まず、大喜利に付加される属性は「道具」しかありえないこと、これを心に留めてもらいたい。

 

ここで、「生大喜利」。「生+大喜利」。生を使って大喜利をするとは何なのか?「生」は道具ではない。本来、「生大喜利」で行われていることすべてが「大喜利」であったはずである。それにあえて「生大喜利」と名付けた人たちがいる。

 

・なぜ「生大喜利」と名付けたか

 

「生大喜利」の前に大喜利があったはずで、しかし「生大喜利」はできずに何らかのほかの手段で大喜利をやっていた人が(つまり、何らかの制限があって、「生大喜利」はできなかったが、その制限がなくなったことにより、「生大喜利」ができるようになった人が)、そこでまた居場所を作った、というのが「生大喜利」の成り立ちではあろう。

 

つまりその人にとってはまず、「ネット大喜利(に類する、実際に会って行う大喜利以外の大喜利)」=「大喜利」だったのだが、実際に会って行う大喜利が容易に行えるようになったので、「実際に会って行う大喜利」=「大喜利」になった。しかし、それを同じように「大喜利」と呼んでしまうと自分より後にそのルートをたどる人間に対して先達と成れないので、新しい名前を付けたのである。

 

何度も言うように、既にあるものに別の名前を付けて居場所を作ることは何ら悪いことではない。大学の非認可サークル活動みたいなものである。純粋な概念、たとえば「野球部」という名前にしておくと、「野球をやりたいだけの人」が入ってくるが、そこにたとえば別の名前を付けて「〇〇ベースボールサークル!野球で楽しみましょう!たまに飲みなんかも!?」と書いておけば、「何か文句があるなら自分でやれば?」という理屈が成り立つのである。つまり、同じことがやりたいはずなのに、それぞれが新しい名前を付けてやるということになる。

 

新しいアイデアに新しい名前が付くことはもちろん、なんら悪いことではない。今問題にしているのは、従来からのアイデアに新しい名前を再定義してしまっていることである。

 

・小さいパイをさらに粉々にして、どうするのか

 

それの何が悪いの?と思う人が贔屓目に見ても確実に居ると思う。「文句があるだけでしょ?文句があるなら自分でやれば?」と言いたい人もいると思う。まあどう見ても文句なので文句であることをなんら隠しはしないが、理屈が通っていないことは言わなければならないし、そうしない方が全体にとっていいはずなので、言っているのである。

 

従来からあるアイデアに対して新しい名前を定義し、居場所にして、「文句があるなら自分でやれば?」で押し通すという方法にはたった一つ問題があるのだ。それは、「全体のパイが大きい時にしか機能しない」ということ。そして、それぞれに定義された「新しい名前」に対して躊躇してしまった人の行き場所がなくなってしまうことだ。一般人の趣味としての「生大喜利」の人口は、まだまだそれほど多くはない。そして、「大喜利」=「生大喜利」なのである。「生大喜利」というゲームはない。大喜利をしているだけだ。そこに付加される属性は“道具”だけであるべきなのだ。

 

何度も言うように、IPPONグランプリやケータイ大喜利を見て、初めて大喜利を見た、大喜利って面白いな、やってみたい、と思った人が何を調べようとするのか。それは「大喜利」だ。

 

ある個別の全体の中で主張していることに意味はない。全体の一部として、全体を発展させていくためにはどうしたらいいのか。現状では、みずから流入を制限しているようにしか思えない。これは、「生大喜利」だけの問題ではない。「実際に会って大喜利をする」ということを特別なことにしてはいけないのだ。