大喜利三昧

もうちょっと大喜利を楽しむブログ。

素人大喜利の人は大喜利にしかほとんど興味がない

「素人大喜利の人はなぜ大喜利にしかほとんど興味がないのか、という疑問に対する考察や、その他もやもやしていること」を読んだので、書きます。

これは感想的なモノも含んでいるので、できれば読んでからこれを読んでほしいとは思います。

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「素人大喜利」はすぐでき、すぐに認められる。コミュニティの中で評価される。これは第一。物事には順序がある。元来、笑いの場において文脈は2つしか存在しなかった。それは「笑いで生計をたてているかそうでないか」ということ。「笑いで生計を立ててはいないがその中では面白い」という人は、「笑いで生計を立てていない人」になる。 

 

なので、「素人大喜利の人」はありえない。ありえるとすれば、なんらかの居場所としてその概念は新しく作られたに過ぎない。自分はプロでもないし素人でもないと言いたいのもしれないが、「素人大喜利の場」には残念ながら素人しかいない。 

 

もしくは、批判しやすくするために、ある派閥のイデオロギーとして、仲間意識の確認として、レッテルを貼ったに過ぎない。まあそういうたぐいの人たちがいますよね、という感じでそう名付けたのかもしれない。仮想敵を作って、「そうではない」人々でまとまるという作戦をとった結果、過去に何が起こったのか知らない人はいない。 

 

つまり「素人」と「大喜利」をくっつけて「素人大喜利」とすると語弊が生じる。そういう人がいるように感じられてしまうのである。考えなければいけないのは「素人大喜利の人」についてではなく、「素人」が「大喜利」をすることについてである。

 

まあ、「「素人」が「大喜利」をすること」から「素人大喜利」が分離しているということを考えないでもないが。 「素人大喜利の場」に素人しかいないということは、素人が表現し、素人が判断しているということである。これは似ていると言われる他のものと明らかに違う。

 

IPPONグランプリのような「プロの回答」でもなく、雑誌の大喜利コーナーのような「プロが選んだ素人の回答」でもなく、ただそこには、「素人の回答」しかない。そして、「素人の評価」しかない。 

 

 ・なぜ「素人」で、なぜ「大喜利」なのか考え直すべき 

 

 笑いが好きで、笑いを表現したい。そして認めてもらいたい。 そういう考えを持った人間が普通、素人で大喜利をやっている人間には多いと思う。完全に最初から笑いが嫌いなのに大喜利をやっている人がいたら教えてほしい。

 

そういうことを志向して、あるいは心の中に秘めた思いが抑えきれなくてでもいい。大喜利を始めたはずである。そんな難しいことは考えなくとも、「こんなふうなことがしたい」と考えて何かを始めることはとても尊い。

 

 しかし現状、我々はどうしようもなく素人で、どうしようもなく大喜利しかできない。あるいは、大喜利以外で笑いを表現することを恐れて、しないでいる。そしてそれを選んだ。それ以外もやっているよと言う人。大喜利だけじゃないよと言う人。もちろんそれでいい。ただ、今は大喜利の話をしているのであって、それ以外のことはとりあえず収めておいてほしい。フットサルの話をしているのにサッカーの話をされても困る。

 

 まず素人としての部分。我々は最初に全員もれなく、笑いを表現する場所を得たいと思った。しかし年齢もある。それぞれの人生もある。将来の保証がない。趣味程度でいいと思った。 そういったわけで、笑いに対して素人のままで、笑いを表現し、どうせ表現するのなら、笑いに対する対価を得たいと思った。

 

お笑いを職業とする道は厳しい。0から1を作り出す才能はない。 

 

そこに大喜利があった。お題がある。答えるだけでいい。しかも「素人」なのだから、責任はない。まあ対価としてのお金もないが、それは仕事でなんとかしよう。こうして、「笑いを表現したいが自分は才能がないし自信がないしリスクも負いたくない」人間が“素人大喜利”にハマる。

 

引用すれば、「「大喜利」を便利なツールとして利用」することにした訳である。 返す返すになるが、これは100%まじりっけなく悪いことではない。全員が戦う必要はないし、「すべて受け身の快楽は二流」である。

 

テレビを見て、ラジオを聞いて、雑誌を見て、「楽しそう!こういうことがしたい!」と思ってそれを真似てやることは当然の帰結である。まあ軽い気持ちでやってみようということである。 

 

だが、次第に、我々は大喜利に飽きる。何度も言っているが、「大喜利は飽きやすいゲーム」なのである。たまにやることが長続きする秘訣ですよと言っても良い。すべての回答は刹那的に使い捨てられるので、未来永劫語り継がれていくようなマスターピース的回答の存在はそれを認められない。ある一定の閉じられた世界でブーム的に使われるような言葉は生まれるかもしれない。 

 

そんなゲームの中で人格が認識されるためにはどうすればいいか?いずれかのコミュニティの中に所属するか、結果を出すかしかない。個人で結果を出している人も結局は「大喜利」というコミュニティの中に所属することによって人格が認められているので同じことではある。 

 

素人で大喜利をめちゃくちゃやっているのに「大喜利が楽しい!」と言っている人はすべて、いずれかのコミュニティにおいて、大喜利の回答以外の個性が認められている人である(もしくは、そう思い込んでいる)。そのコミュニティに属していること自体が楽しいので、それは一生楽しいだろう。そうした人が増えて行くことでもちろん裾野もひろがり、プレイヤー人口も増える。 

 

しかし、そのコミュニティにおいて人格が認められるというプロセスに問題は潜んでいる。前述のように「大喜利は飽きやすい」。毎日やるもんでもない。お題に沿った良い回答を出し続けるのは疲れる。すると、当初の「笑いを大喜利で表現した結果」「認められたい」という目論見が、しだいに「認められたい」だけになってくる。

 

考えてみよう。みんなが大喜利をしているコミュニティで目立つためにはどうするか?答えは簡単で、大喜利をしなければいい。「みんなが大喜利をしているコミュニティで、大喜利をしなければ、「大喜利をしない人」として目立ち、認められる」のである。そう、このように大喜利に関する悪文を書いて・・・というのは冗談だが、結局Aにおいて目立つにはAをしないことが一番手っ取り早く簡単なことである。

 

一つ疑問が生まれると思う。「AにおいてAをしないことで目立ったとして、そのコミュニティにはいられないのでは?」これはある意味では正しい。しかし、大喜利においては間違っている。何故か。

 

スポーツを例にとってみよう。 F君は「目立ちたい、認めてもらいたい、うまくなりたい」とサッカー部に入った。最初はサッカーが大好きだった。しかし、ほかの人を見るにつれて、「自分には才能がないのではないか」と思い始めた。そこで、サッカー部をやめて、周囲の関心を引いてみることにした。 F君のサッカーにまつわるストーリーは多分、ここで終わってしまうだろう。まあ、別の部活に行くか何もしないか・・・一時的に「F、部活やめるってよ」とクラスの話題になるかもしれないが、サッカーとは関係のない生涯を歩むだろう。 

 

 一方大喜利の場合。 F君は「目立ちたい、認めてもらいたい、おもしろいと言われたい」と大喜利を始めた。最初は大喜利が大好きだった。しかし、ほかの人を見るにつれて、「自分には才能がないのではないか」と思い始めた。そこで、“大喜利の場で”“真面目に大喜利をしないで”周囲の関心を引いてみることにした。「真面目に大喜利してるなんてダサい」。 

 

すると、なぜかF君は「大喜利をしない人」としてもてはやされ始めた。なぜか。「面白ければいい」からである。ちゃんと逃げ道も用意した。「素人だから」完璧である。認められて、目立つ以外の結末が思いつかない。ああ、なんて素晴らしい大喜利。私ができるのは、「それ、大喜利じゃなきゃダメ?」と思うことだけ。なぜなら、「面白い」から。 

 

私は、大喜利があってよかった、大喜利に出会って良かったと思っている。それは、大喜利しかなかったからだ。笑いを取る手段が。話が面白いというのでもなく、顔が面白いというのでもなく、動きが面白いというのでもない。それでも面白いと言われたかったし、大喜利をやりたかった。楽しそうだと思った。お題があって、それに対して面白いことを考える。これがすごく無駄なことだが、偉大な無駄だと思う。表現手段として、大喜利以外がある人もいる。大喜利しかない人もいる。 

 

 ・説得力の問題 

 

意外と言われないことだが、大喜利を見るときには全員もれなくバイアスがかかっている。「俺は公正に判断している」「私は面白かったら笑う」という人は、少し自分を疑った方が良い。

 

ただし、これはしょうがないことで誰が悪いということでもない。運動会で同着だったが、うちの子供の方が確実に速かった、という親みたいなものだ。

 

ところで、判断するのも素人である「素人大喜利」において、勝利の説得力はどこで担保されるのか?プロが選びましたということなら、これが優勝ですと言われてもまあそうなんだろうなということになるが、素人が判断する以上、どこまでも結果に対しては文句が言える。

 

それをどうやってルールによって取り除くのか。また、感じさせないようにするのか。 

 

 ・「ストロングスタイル」放逐こそが「素人大喜利の人」の意識だけのプロ化、言い換えればセミプロ化を生む 

 

ストロングスタイルが批判されていた。一見すると非常に正しいように見える。しかしこれは、悪いようにはどうしても思えないのだ。「回答で笑いを取った」結果として、「優勝する」。これは、悪いことか?負けた場合も考えてみる。「負けてしまった」結果として、より「回答で笑いを取ろうとしようと思う」わけだ。これ、悪いことか?私にはそうは思えない。

 

ただ、行き過ぎたストロングスタイルが発生することも事実だと思う。一方で行き過ぎたカジュアルスタイルへの指摘もあってしかるべきだが。 

 

いま、大喜利興行は、素人に対して、「参加費を払い」「観客のことを考え」「プレイヤーかつ観客として動き」「回答だけに集中せず」「勝ち負けには執着せず」「面白いことを言え」と言っている。

 

そのハードルを越えられるほどの人って、相当大喜利に執着が強いか、大喜利コミュニティに執着が強い人だけなんじゃないか?その結果残ったのがストロングスタイルのプレイヤーばっかりなんじゃないか?と思っている。

 

 いや、ストロングスタイルのプレイヤーなんて存在しない。存在するのは「大喜利をすでに見まくっていて、大喜利にスレた人」なんじゃないか?私もそう。あなたもそう。

 

 甘めに見積もっても、大喜利を昨日始めた人に要求できるのは、「参加費を払い」「プレイヤーかつ観客として動き」「面白いことを言え」くらいだと思う。「回答だけに集中させない」「勝ち負けに執着させすぎない」ことは、運営・主催・ルール側の問題であり、責務だと思う。 

 

「行き過ぎたストロングスタイル」を「童貞臭さ」「視野狭窄」というのなら、いま、「僕・私の視野は広い」と思っている人にも、そういう時期はあったはず。忘れているだけ。そして、主催以外にも、そういう人が「視野狭窄」の人を導くべきである。“「視野狭窄」の人”を「視野狭窄」だと言い続けていても未来は来ない。 

 

 ・現状を失敗というのなら、確実に歴史が失敗してきたはず 

 

 「ストロングスタイル」志向の方が非常に多い」ということが、正しいとしよう。そしてそれは良くないと主張したわけである。次に考えるのは、なら、“なぜそうなったか”ということである。 

 

つまり従来の大喜利は、素人に「次の機会の大喜利」をやらせるため、ありていにいえば集客のモチベーションとして、「勝敗」を強く提供し続けてきたのではないかということである。その結果として現状がある。

 

イベントとして、「大会」とするのが最も簡単でイベントにする意味が分かりやすい。 「大会なので、1番を決めます」と言いつづけてきて、「最近、勝敗にこだわりすぎ」と言われているのである。

 

いやいやそれなら、「大会」と言って人を集めようと思わない方が良い。フリーエントリー式の「大会」と銘打って置いて、それが個人戦であるにもかかわらず、勝敗にこだわる人に対して「勝敗にこだわりすぎ」というのは無理がある。 

 

それを解決するにはどうするか。複数戦にすればいい。これだけである。タッグでもチームでもいい。そうするだけで、それぞれのチームの中で別々のストーリーができる。個人戦で「大会」と言われた場合、ストーリーはその大会のストーリーしかないが、チーム戦なら1回戦で負けても、次へのモチベーションができる。お祭りにしたいならお祭り感を出そう。 

 

これ、ゆとり教育に対する批判と同じではないかと思う。最初は学力”だけが”重視され過ぎているという批判だったはず。それをモチベーションにしていて良かった時代も、それがモチベーションになって為し得た成果も、「それをモチベーションにすることによって利を得た人間も」いたはずなのに。知識は大切である。知識だけではないというのも分かる。どちらも取ることはできないのか考えよう。つまり、競うことができる方法をそれぞれが持っていることと、「同じ方向で競うことを楽しむ場」と「それぞれの様々な方向を楽しむ場」が両方、明確な形で在ることが理想と言える。明確な形というのが肝要である。

 

 ・カジュアルスタイルとストロングスタイルを明確に分離する 

 

 趣味のカードでいえば、マジック・ザ・ギャザリングのフライデー・ナイト・マジックがずっと続いていることは参考にしたい。 

 

「金曜日の夜は、大喜利」と決めてしまって、それを毎週、カジュアルに楽しむということが必要である。勝敗を利用してゲームを楽しくしようというのなら、カジュアルスタイルのプレイヤーとストロングスタイルのプレイヤーが混ざったところで、その場がカジュアルかストロングスタイルかを後出しするのはおかしい。分けた方が良い。

 

しっかりと分けることで、それぞれにフォロワーができる。カジュアルとストロング、どちらが良くてどちらが悪いということもない。それぞれに楽しさがあるのだから、1人の人間が、カジュアルな場とストロングな場のどちらにも向かい、どちらの楽しさも知るというのが健全である。対立する必要はない。 

 

まあ、カジュアルな場です!ストロングの場です!というのをあまり主張すると角が立つかもしれないので、ストロングの頻度を、やや下げることを提案したい。

 

1週間に1度の“大会”と、1か月に1度の“大会”では、どちらがより“ストロングスタイル”で「勝敗にこだわっている」と思われるか?半年に1回、1年に1回では? そして、宣伝方法は?フライヤーのデザインは?メンバーは?審査員は?そしてなにより、ルールは?考えることは沢山ある。基準に置いておくべきは、初めてそれに触れた人が理解できるか?ということだ。初めての人間のことを考えれば、全員理解ができる。

 

 ・地方のカジュアルプレイヤーとしては 

 

 ここまで書いてきて思ったのだが、大喜利とフリップ大喜利って違うよね。普通の大喜利をカジュアル、フリップ大喜利ストロングスタイルの象徴と言ってもいいんじゃないかと思う。歴史から言っても、そう。まあ、大喜利会的なやつをいっぱいやっていきましょうということで。 

 

 参考

素人大喜利の人はなぜ大喜利にしかほとんど興味がないのか、という疑問に対する考察や、その他もやもやしていること https://note.mu/sbt_note