大喜利三昧

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日常系アニメとおもしろい巻尺説

日常系アニメというのがあります。

何年ほどかそういう言われ方をするアニメは、日常系、すなわち高校生などの学生生活をまあ普通にと言いますか、敵とか、大きな目的とかなしにお伝えするわけで、特にストーリーを追わなくても良いとか、なんとなく見られるものですから、それはそれは、隆盛を極めたと聞いております。そのものずばり「日常」というアニメもありました。

 

しかし良く考えてみれば、日常系アニメというのはもっとも日常から遠いものだなと思ったのがさきほどのことです。日常系アニメというのは、まあアニメですから、二次元ですし、心の声なんかも聞こえる。神視点で進む話もある。

 

例を挙げれば、校庭の裏にそそくさと消えて行った2人を普通は追うこともできず、見ることもできないのですが、アニメであれば、そこで何が起きているかということもまるでそこにカメラがあるようにして見ることができるわけです。そういうことを考えて行くと、奇跡的な日常というのはもっとも日常から遠いものだなと思うわけです。

 

まず、あんなに可愛い子はいないし、あんなに分かりやすい人間ばっかりということも普通はありませんからね。つまり確実な非日常を日常と言い張っているのであって、それは最も日常から遠い所にあります。

 

ところで。

最近思ったのですが、人間には「おもしろいの巻尺」があるような気がするのです。まあ、普通は「自分のモノサシで~」とか「お前のモノサシで~」とか言っていますから、それと同じようなものだと思っていただければいいのですが、ここでは、中心に点を取って、そこからの距離が測れるような巻尺を思い描いていただきたい。

 

「自分のモノサシで~」なんか言う時は、それは人によって違うものだという前提がなされていますが、僕が今から言うような「おもしろいの巻尺」は全員同じです。同じ長さです。有史以来同じ長さです。

 

中心に点を取って、そのおもしろいの巻尺の先端に鉛筆をくくりつけて、ぐるっと一周してみます。そうするとどうなるかというと、おもしろいの円が出来る。これをその人が面白いと感じることができるゾーンとします。おもしろいの巻尺は全員同じですから、最初このゾーンはみんな同じわけです。つまり、赤ちゃんはなんでも笑うよ、という状態のことです。

 

ところが、その点がだんだん大きくなって、そこに空白ができる。それが「常識」です。「普通」といっても良いですが、中心に普通のゾーンができると、おもしろいの円はドーナツ状になります。ここではじめて、「おもしろい」と「おもしろくない」の区別をし始めるわけです。更なるおもしろいことを知ったわけではなくて、普通の範囲が大きくなってきたから、それを基準にしておもしろいのゾーンが作られて、それによって“新しい”おもしろいを知るようになるわけです。

 

つまり人によって「おもしろい」に違いがあるのではなくて、「おもしろくない」、常識の部分に違いがあるので、結果として、おもしろいの部分にも違いは出てくる。という感じになるのではないかということを言いたいわけです。

 

まあここまでだとあれなので付言しておきますが、この「おもしろくない」の部分には「おもしろい」も入っています。つまり、「おもしろいけど、これはジョーシキっしょ」みたいなことがあるわけです。すると、それ自体の評価にその人の知識が入ってくることは避けられないことになります。